「人間モーター」を知っていますか?


政治犯教化所の元女性収容者 李順玉氏の証言


北朝鮮の電力供給は非常に不安定です。そのため、一日おきに昼間の勤務時間に電気が使えない状況になります。しかしながら、電気があろうとなかろうと、日々のノルマが減ることはありません。その結果、女性の囚人たちはミシンを動かすために手動でモーターを回さなければならなくなるのです。


工場内には一つの電気モーターを動力源とした約100台のミシンがおいてあります。女性たちは10人一組となり一時間の間、ベルトを引き100台のミシンを動かします。それを交代で行うのです。その過酷さは想像を絶しています。生産部門の将校は、ノルマ達成のため容赦なく鞭をふりおろします。

 

女性の囚人は標準の食事100gを得るためにノルマを達成しなければなりません。そこで生産される靴には多くの釘が使用されているため、囚人たちは毎日相当数の釘を打ち付けないといけないのです。

 

彼女たちの硬い手はすべて曲がって変形しています。300人の囚人が毎日1000足のブーツを生産しています。ノルマを達成するために一日1618時間の労働が必要です。またしばしば、ノルマを達成するために朝までの労働を余儀なくされます。一人でもノルマが達成できないと全員が罰を受けることになるからです。

 

金明淑(キム ミョンスク)さんはとても有能ですぐれた技術をもつ労働者でした。彼女は上官向けのすぐれた靴を生産していた。使用している機械はドイツ製でした。しかし、それらの機械は60年前に輸入されたもので、年を追うごとにうまく動かなくなっていきました。ある日、彼女は機械の故障でノルマを果たすことができませんでした。看守は彼女を蹴り、叫びました。

「このメス豚!はやく機械をなおしやがれ!」

彼女がノルマを果たせなかったことが明らかになった日、彼女は工業用の塩化水素を服用して自殺しました。1992年の1月のことでした。

 

教化所の高官は思想の授業を毎日行います。囚人の「思想の堕落」の再発防止のためです。毎日寝る前の一時間、立ったまま意味の無い講義を聴くのは非常に苦痛です。


 

凍結した河川での強制労働

管理所の元男性収容者 安赫氏の証言

 


冬場、収容所では−20〜−30℃まで温度が下がる。1987年の冬、私が収容所に送られてからすこしたったとき、来春から建設開始予定の発電所の下準備への参加を命じられました。私たちの仕事は表面の氷を割り、川に入り、川の底に大きな石を使って目印を作ることでした。道具はなにもありません。唯一使えたのが、ショベル、つるはし、棒でした。凍えるような冬の日に、朝から凍った川に入るのは死にそうなほど辛いものでした。誰も最初に入ろうとはしませんでした。

 

「おいお前!お前が入らなかったら、全員を処刑するぞ!」激昂した看守が叫びました。私たちは衣服を脱ぎ下着一枚で川に入っていきました。骨と皮だけの私たちはあまりの寒さに凍えました。毎日7時間水の中で働きました。

 

最初、凍りつくような寒さで手足が麻痺しました。その後、手足が動かなくなりました。まるで、丸太のようでした。水の中に丸太のように倒れ落ちるものも出てきました。足の血液が止まったように感じ、その瞬間足の感覚が全くなくなってしまいました。「たのむ、俺を殺してくれ!」水の中で動けなくなり、泣き叫ぶものも出てきました。

 

最終日、指先は恐ろしく肥大し燃えているように赤く見えました。あまりの苦痛に寝台に移動することすら困難でした。川での作業を終え数ヵ月後、指先は黒く変色し、ついには腐り始めました。

 

耀徳(ヨドク)収容所は高い山のふもとにあり、冬の訪れも早い。9月中旬には凍えるような寒さになります。冬の平均気温は−20〜−30℃。辺りは雪で覆われ、冷たい風が吹きすさびます。十分な衣服も与えられず、しかも栄養状態の良くない囚人たちにとってはなおさら寒く感じます。誰も凍傷から逃れることができません。誰もちゃんとした靴も靴下も手袋も持っていません。手足は赤くはれ上がり、あまりの痛みに眠ることすらままならない。しかも、治療も一切行われません。鍋の冷たい水で手足を洗うことすら、ささやかな喜びとなります。何本の指が残っているかで囚人の収容所の滞在期間がわかるのです。


1987年、私が収容所でむかえる初めての冬のある日、看守が発電所の建設を発表しました。「お前たちはとても光栄だ。何せ発電所建設という国家の福祉に貢献する機会が与えられるのだからな!」私たちはささやきました。「今回は何人殺されるんだろう?発電所が出来上がるころ、何人の人の指が残っているのだろう?」

 

このように凍結した河川での作業が開始されます。もし作業を中断しようものなら、「おいおまえ!こっちへ来い!」と看守に呼ばれ、激しくぶたれ、頭を水の中に押さえつけられます。私たちはこのようにして一日7時間働きます。囚人たちはあまりの寒さと激しい処罰で今にも死にそうな顔をしています。だが奇妙なことに出血はするが死には至りません。もし動物があのように激しくぶたれたら、生きのこるものはいないでしょう。しかし、多くの囚人が空腹と凍える寒さ、激しい処罰にも関わらず、重労働の日々を生き延びます。人とは本来非常に強く、奇跡的な生命力を持ったものであることを思い知らされました。


ゴム工場での労働


政治犯教化所の元女性収容者 李順玉氏の証言

 

ゴム工場での生活は女たちにとって非常に危険で困難を極めます。使用済みゴム屑と粒状のゴムを混ぜ合わせ、それらを大きなタンクまで運び、ゴム用の接着剤と一緒に混錬するのです。その大きなタンクは有毒な蒸気を発しています。ある女性が巨大な接着剤用タンクを清掃している際、頭からゴムの接着剤をかぶり窒息したのを見たことがあります。

 

外気によりゴムの中に気泡ができてしまうので、工場は一年中しっかりと密閉されています。加えて、工場内はいつも暑い蒸気で満たされているので、足の裏にカビがはえます。そのため、工場内はいつも息苦しく窒息しそうなほどです。タンクのねばねばした混合物はよくタンクから溢れ出します。そんな時、女たちはそれをタンク内に押し戻さないといけません。空腹で弱々しい女たちにとってはひどく大変な労働です。時にはねばねばした混合物によってタンク内に引きずり込まれ死亡してしまうこともあります。あまりに多くの女性囚人の死亡や負傷が多発したので、教化所の高官は工場の操業は男性の囚人に限定することにしました。私が教化所に来てから2年目、1989年のことでした。


汚物を運ぶ女性囚人


政治犯教化所の元女性収容者 李順玉氏の証言

 

年老いていたり、作業の効率が悪かったり、窓を鏡代わりに自分の姿を眺めていた囚人は罰として3ヶ月から一年間の「堕落組」での労働を強いられます。彼女らの主要な仕事は囚人用の便所槽から汚物を集めて、汚物用の大きな貯蔵槽に運ぶことです。その汚物は壁の外で行われている農業活動に用いられます。5人一組で800kgの金属製のタンクを引っ張らなければなりません。

 

2人の女性が便所槽の底に降り、膝ぐらいまで漬かりながら作業をします。20リットル入りのゴム製のバケツに一杯、素手で汚物を詰めます。その後、3人の女性がバケツを引っ張りあげ、移動用のタンクに汚物を移し変えるのです。

 

引き上げる役目の女性の力が弱いために、バケツの重みに耐えられず便所槽の中に落下することもあります。移動用のタンクが一杯になると、丘の上の広くて深い汚物用の貯蔵槽まで引っ張っていくのです。

 

1991年のある雨の日、平壌(ピョンヤン)出身の主婦でした李玉丹(リ オクタン)さんは一日中汚物を運んでいました。巨大な汚物用貯蔵槽に汚物を移し変えようとしたとき、移動用タンクの蓋が詰まり開けることができなかったので、タンクに上り蓋を開けようしました。その時、雨に濡れたタンクから汚物の貯蔵槽へと滑り落ちてしまいました。あまりの深さに彼女の姿は一瞬にして消えていきました。彼女を助けようとしたとき、囚人の悪臭から逃れるために少し離れた場所から見ていた看守が叫びました。「止めろ!そのまま死なせとけ!お前たちも同じように死にたくないのなら、な!」彼女はそのまま汚物の中へと沈んでいきました。



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