懲罰室、死の部屋

政治犯教化所の元女性収容者 李順玉氏の体験


 

 

懲罰室へ送られることは収容者たちにとってもっとも恐ろしい処罰です。幅60cm、高さ110mのその部屋では立つことも、足を伸ばすことも、ましてや横になることもできません。その上、壁がギザギザに尖っているため、もたれることすらできません。懲罰室は女性収容者のために20部屋、男性収容者のために58部屋あり、彼らは大体710日間拘留されることになります。拘留の理由は「服に油よごれをつけた」「総書記への正月のあいさつを忘れた」「何度も仕事の割り当てを達成できなかった」などです。

 

 ようやく懲罰室から解放されても、足は酷く曲がったままで、特に冬には凍傷にもかかり、歩くことすらできません。懲罰室から出ても、ろくな運動をさせてもらえず、足が動かなくなり、また、すぐに作業に戻らされるため、多くの者が死んでしまいます。そのため収容者達はこの懲罰室を「七星(チルソン)室」と呼んでいます。(注:棺おけの隠語。古来より墳墓壁に北斗七星を描く風習からの発想だと思われる。)

 

198911月、私は2週間懲罰室に入れられた。20歳の女の子が作ったシャツの失敗を隠そうとしたためです。その女の子は拷問のための部屋に連れて行かれ、それ以来彼女を見ることはありませんでした。懲罰室の中で、最も辛かった事は用を足すための穴から入ってくる凍りつくほどの冷たい風です。また夏は夏で、その穴から這い出てくる無数の蛆を掃続けなければなりませんでした。

 

 懲罰室から解放された後、私は15日間まともに歩くことができませんでした。しかし幸運にも私の作業が教化所内を歩き回って仕事の指示をするものだったため、なんとか回復することができました。

 

 懲罰室の中で用を足すための穴からネズミが這い上がってくると、もうその日は最高の日となるのです。素手でネズミを掴み、生のままがつがつとむさぼる。教化所内ではこのネズミが唯一摂取できる肉なのです。あのネズミのうまさは今でも忘れることはできません。しかしながら、ネズミを食べている所を警備兵に見つかると拘留を延ばされてしまいます。十分に用心しなければなりませんでした。



若い女性の辿る運命


管理所の元警備兵 安明哲氏の証言

 

韓信徳(ハン ジンドク)は6歳の時に、この22号管理所に連れて来られていました。私が彼女に初めて会ったのは1991年の夏だった。そのとき彼女は26歳のきれいな女性で、漆喰塗や、炭鉱での仕事をしていたのですが、他の収容者達とはどこか違っていました。彼女は人間としての尊厳を持ち続け、他の収容者に対しても笑顔を絶やさなかったのです。 

 

 彼女とは私が豚舎で勤務していた頃に知り合いました。ある日、彼女は全身を殴られ、輪姦され、身も心もぼろぼろになってしまっていました。おまけに警備兵と性行為を行った罰として彼女の胸は無残にも焼かれていたのです。その後、彼女は屈山地区の43班へ送られ、そこで坑道を走る運搬車に轢かれ、両足を失いました。

 

 1991年の夏のある日、私は豚舎の事務室で昼食後にギターを弾きながら韓国の歌を歌っていました。豚に餌をやろうと歌うのをやめると、窓のそばから走り去る女性収容者の姿が見えました。韓信徳(ハン ジンドク)でした。私の歌を聴いていたのです。彼女を呼び止めると、深々とお辞儀をしたままこちらにやって来ました。収容者は皆、警備兵の前ではそうするように命じられているのです。彼女が怯えているのを見て、不憫に思えました。

 「私の歌を聴いていただろう?」と聞くと、彼女は「はい、先生様。お許しください。」と答えました。私は他に口外しないよう告げ、立ち去ってもよいと言いました。しかし、彼女はその場から動こうとしません。そしてためらいがちに私に尋ねました。

「先生様、先ほどの歌を教えていただけませんか?」

私は危険性を考え、「だめだ」と断りました。

「ここにいる者は皆、先生様の優しさに感謝しております。教えていただくということがどういうことかというのは存じ上げております。先生様に害が及ぶようなことは決していたしません。私達は獣ではございません。先生様のご恩は決して忘れません。どうか歌を教えてください。」

 起こりうる身の危険に悩みました。除隊させられ、厳しい処罰を受けさせられるかもしれない。しかし彼女達はこの数ヶ月の間私を裏切ることは一度もありませんでした。私は彼女に歌詞を教え、私の歌を聴くことを許しました。これが彼女との出会いでした。

 

 彼女の父親は江原道の安辺(アンビョン)で獣医をしており、おじは陸軍大佐でしたが、1973年、当時の人民武力省長官とともに追放されました。彼女がまだ7歳のときに、保衛達が夜中彼女の家に押し入り、家族全員連れ去ってしまいました。父親も特別な任務のためにどこかへ送られてしまい、着るものも食べるものもなく、彼女は飢えに苦しんだそうです。涙を流しながら話す彼女にしだいに彼女が自分の姉ですように思えるようになり、それ以来、誰にも気づかれないように、私はできる限り彼女を助けてあげました。

 

 その年の暮れ、私は豚舎を辞め、他の任務に就くことになりました。その数週間後、私は彼女が警備兵と性行為を行ったため逮捕されたという話を耳にしました。私は、彼女が拷問の末に私との関係を喋ってしまいやしないかと気が気ではありませんでしたが、何週間たっても私の身には何も起こりませんでした。彼女は約束を守ってくれたのです。しかし、彼女はもう死んでしまっているだろうと思っていました。

 

そう思っていたので、次の年の3月、車で本部へと向かう途中に彼女を見かけた時は自分の目を疑いました。腰が曲がり、がりがりにやせ細っており以前とは全くの別人のようでした。私を見つけると彼女は大喜びし、微笑もうとして顔を歪ませました。

 

「生きていたのか!あれからどうなったんだ」

「こんなに惨めに生きるぐらいなら、あの時死んだほうがよかったです。警備兵の先生様たちに死ぬほど殴られました。みんなで何度も何度も・・・。私はもう女ですらありません。実は私は情報員(注:収容者の情報を集める、密告するように当局から指名された)でしたのです。そのため命だけは助かったのです。これを見てください」

そう言いながら彼女はシャツのボタンを外しました。彼女の乳房は傷だらけで膿が溜まっており、ひどい悪臭を放っていました。

「胸を焼かれたのです。この傷はもう治りません。今は炭鉱へ送られ、そこで働いています。もう3ヶ月になります。食事も減らされたうえ、休むことなく24時間ずっと働かされています。病院に行くことを許されているのも、私がすぐに死ぬと思っているからでしょう。」

「そんなことになっていたなんて。もっと話をしていたいが、もう行かなければならない。今度来るときは薬を持ってくる」

 「先生様、あなたのご恩は決して忘れません。ありがとうございます。さようなら」

 

 後日、抗生物質の塗り薬を持って彼女を探したが、彼女の姿はありませんでした。しかし、そのおよそ1年後、私はとうもろこし畑で働いている年寄りや障害者達の中に彼女を見つけ、驚きました。

 

「どこにいたんだ?その足は一体どうしたんだ?」

「炭鉱で運搬車に轢かれ、両足ともなくなってしまったんです。」

「いつの事なんだ?」

「前回先生様とお会いした3日後です。」

私はそれ以上何も言えませんでした。これ以上つらいことを思い出させて彼女を苦しめたくなかったのです。



武術の練習に使われた収容者たち


政治犯教化所の元女性収容者 李順玉氏の証言

 

教化所に入れられると飢えや拷問のため、骨と皮だけになり、別人のようになってしまいます。男性は女性よりも早く栄養失調になり、気がおかしくなるのです。格闘技の練習台にされるためです。警備兵達は彼ら練習台にして殴ったり蹴ったりするのです。収容者たちは最初の一発で血を流し倒れてしまい、そのままコンクリートの床の上で動かなくなってしまいます。そうなると、自分達の牢屋の中へ蹴り戻されるのです。

 

 警備兵はしばしば収容者達の近くに魚を持ってきて、それをコンロで炙り始めます。そのおいしそうな香りは飢えている収容者にとってどんな拷問よりも耐え難い苦しみとなります。



格闘技の練習台にされた政治犯達

管理所の元警備兵 安明哲氏の証言

 


1988年4月のある日、私達はいつものように22号管理所内で格闘術の訓練をしていると10人ほどの収容者がこちらを見ながらそばを通りすぎようとしました。私のいる小隊の副隊長の崔明哲(チェ ミョンチョル)中尉がそれを目にし、彼らにこっちへ来るように言いました。彼らは膝をつき、震えながら深々と頭を下げました。「もう二度と先生様の練習の邪魔はいたしません。お許しください。」

「黙れ、くそったれ。立って前に出ろ。左を向け」

隊長はそう言い、彼らを訓練場の真ん中に立たせました。

それを見ていた先輩警備兵達は「いい機会だ。今日は横蹴りの練習をしよう。」「それじゃあ俺は回し蹴りを完成させよう」と言って嬉しそうにしています。

「我々人民の敵ですこいつら畜生のせいで首領様はぐっすり眠ることが出来ない。今日はしっかりと訓練することにしよう。いかなる場合でも一撃で敵を倒せるように準備しておかなければならない。・・・こいつらに情けをかけるような奴がいれば容赦しないからな。」

副小隊長はそう言うと10人ほどの新入りに彼らを取り囲むように言い、逃げられないようにしました。そしてその中の2人の収容者を2m離れた柱にくくりつけました。

 

 警備兵は一人ずつ呼ばれ、収容者が気を失うまで殴り、蹴った。口や鼻から血を流し、歯も肋骨も折れ、収容者たちは痛みに泣き叫んだ。終わった後、ちゃんと歩けるものは一人もいませんでした。早く立ち去るように言われると、足を引きずり、助け合いながらその場を去りました。

 

 北朝鮮は1986年に「洪吉童(ホンギルドン)(韓国朝鮮版ロビンフッド)と「指令27号」という2つの映画をつくりました。それ以来、警備兵達の中では収容者を使って武術を練習し、映画を再演することが流行りました。

 

 正直言うと、我々新入りにとってそんな行為が許されている先輩達が羨ましく、彼らを尊敬の目で見ていました。しかし血を流し、苦痛にうめいている収容者たちの姿を見みて、衝撃をうけ、恐怖に震えました。

 

警備兵は政治収容者を格闘技の練習台に使うように言われていました。後日の同僚との雑談から、こう言った行為は全ての収容所で行なわれていることが分かりました。



格闘技の練習台にされ殴られた収容者

管理所の元男性収容者 安赫氏の体験

 

「準備が出来ました。」一人の警備兵が私を柱に縛りつけ、上官に報告すると、その上官は「よし、こいつらにたっぷりと教えてやれ。」と言いました。

 

「敵国ヤンキーめ、死ねー。やあ―っ。」警備兵の一人が叫びながら私のあごを固いブーツで蹴り上げました。私達は震え上がり、何度も許してもらうように頼んだが無駄でした。警備兵達は私達を練習台に格闘の練習を始め、体中にパンチやキックを浴びせかけました。私は気を失うほど睾丸を蹴られ失禁してしまいました。血がドクドクと喉から流れ出るのが分りました。警備兵の一人が私の頭を持ち上げ、「この獣め!」と言いながら、その血だらけの顔を打ちました。その暴行は午後の間ずっと続けられ、最後には、全身傷だらけで血まみれなり、気を失ってしまいました。私達は午後6時に縛りつけられ、解放された時は、次の朝の10時になっていました。

 

 ある日の午後遅く、石拾いをしていた私達は偶然に警備兵の台所ごみの中に豚の骨が捨てられているのを見つけました。私達は急いでそれを持ち帰り、砕いて手作りの鍋の中で茹でました。その骨のスープを飲めば、多くの収容者が栄養失調のために患っているペラグラ病が少しでもよくなるんじゃないかと思ったからです。

 

 しかし、不運にも巡回にきた警備兵に見つかってしまいました。彼は鍋を蹴り飛ばし、叫びました。「誰に断ってこんなことをしている。警備兵のものに触るなと言う命令を忘れたのか。お前ら手を止めろ。これから命令に逆らうとどうなるかたっぷり教えてやる。おい、こいつらを縛りつけろ。」私たち3人は柱に縛りつけられ、20人ほどの警備兵が私達を使って格闘の練習を始めました。

 

 彼らは次々に私達に殴る蹴るの暴行を与えました。私達が気絶するまで何時間も続けました。

 

 血や漏らした尿や便の悪臭のため、警備兵達は他の収容者に私たちの縄を解くように言いました。解放されたとたん私達は地面に倒れこんでしまいました。ここは誰も他人を助けようとはしない地獄のような場所ですが、中には私達のために涙を流してくれるやさしい心をもった人もいました。近くの小川まで連れて行ってくれ、服を脱がし、体を洗ってくれました。寒さなんか気にもなりませんでした。私は怒りをぶちまけてしまいたかったのですが、ここではそんなことはできません。声を押し殺して泣き、その警備兵達の顔を一人一人覚えていきました。いつか復讐してやるために。




ガーゼのために命をかける女性収容者


管理所の元警備兵 安明哲氏の証言

 

倉庫の火事の後、保衛員は全ての収容者のボディチェックを命じました。彼は「米一粒でも隠し持っている奴は処罰する」と叫びました。

 

 収容者は皆一列に並ばされ、ポケットを裏返し、男も女もズボンを脱ぐよう命令されました。保衛員が一人の若い女性を呼び止めると、彼女の顔は真っ青になりました。「もう二度といたしません。どうか殺さないでください。」彼女は膝まずき、哀願ました。彼女のズボンの中からガーゼが20個ほど出てきた。生理用ナプキンやブラジャーの代わりに使うつもりでした。収容所内では生理用ナプキンやブラジャーは一切与えられません。若い警備兵達は若い女性の裸の下半身を見て楽しんでいました。

 

 他にも4人の女性収容員が火事場からガーゼや靴下を盗んだとして連れて行かれました。彼女達は皆、3週間拘留所に送られました。1人は拷問の末に死んでしまい、残りの者も拘留所から出たときには廃人同様になっていました。


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