公開死刑を見て気が狂う囚人たち

政治犯教化所の元女性収容者 李順玉氏による目撃証言

 

死刑囚の中には、拷問に耐えきれず死を願った者、食料を盗んだ者、ただ単に家に残された二人の子供たちの運命を思い嘆き涙しただだけの者などがいた。 彼らの罪状は党に対する忠誠の欠如ということで、また反党分子、又は反逆者とかいう汚名を着せられた者もいた。

 

 公開処刑場は収容者たちであふれかえっており、最前列の女性たちなどはその処刑の現場からたった1メートルしか離れておらず、そのために処刑された者の血を浴びてしまうこともしばしばであった。 女性の囚人の中にはあまりのショックに吐く者や失神する者、また突発性の精神症(突然気がおかしくなったように歌い出したりヒステリックに笑い出したり)を発症させる者もいたほどです。 その者達は、国家理念に脆弱であると見なされ、また国民の敵に同情をよせたとの事で、懲罰房へと送られました。 また、完全に発狂してしまった者達には何が待ち受けていたのかは誰にもわからず、ただ忽然とその姿を消してしまったのです。

 

金策(キムチェク)市出身の崔嬉(チェ ヒ)崔永玉(チェ ヨンオック)という二人の主婦は処刑現場にて歌を歌い始め、後に電気攻めの拷問によるショックにより死亡してしまいました。公開死刑が行われた日には、价川(ケチョン)教化所にある20の刑罰の部屋は常に、国家理念に脆弱な収容者達であふれてかえっています。

 

教化所での公開死刑

政治犯教化所の元女性収容者 李順玉氏による目撃証言


北朝鮮において公開死刑は教化所の内外で、ごく一般的にとり行われます。

1988年には价川(ケチョン)教化所内で7人の男性と1人の女性が裁判もなしに処刑された。また、それぞれの処刑の際には約6000人(1800~2000人の女性と4000人の男性)の全ての囚人たちが教化の処刑広場に詰め込まれ、公開処刑に立ち会わされていました。

 

 被害者は抗議できないように必ず口かせをはめられ、そして、胸、腹、膝と3ヶ所をポールに縛り付けられておりました。 六人の警備員がそれぞれ3発ずつ、計18発の弾丸を胸に撃ち込み、一番上のロープはその弾丸の一撃によって切り裂かれ、上半身からは血が噴出し、まるで朽ち果て折れ曲がった丸太のように垂れ下がっていました。その後、囚人たちは皆その死体の回りを行進させられ、その惨状見るように強要されたのでした。  

 

 

処刑された死体に石を投げさせられた囚人たち

管理所の元男性収容者 安赫氏の目撃証言

私がようやく死刑を目の当たりにしたショックから我にかえった時、私たちは保衛に、「まずは独身の1組から死体の横を通って仕事に戻れ。そして皆反逆者の横を通りすぎる時に、石を拾って奴に向かってなげろ」と命ぜられました。 最初のグループはしばらくの間ためらっておりましたが、「反逆者の様な目にあいたくなければ」という一声で、囚人の一人が彼らに向かって石を投げたのです!すると驚いたことに皆がそれに続きまいた。どんなことをしても生きたいという強い願いが人間らしくありたいという思いにうち勝った瞬間でありました。 保衛を喜ばすために、その反逆者へわざと近づくものさえ一部にはおりました。

 


が流れた顔と体はズタズタに引き裂け、ところどころに白い骨が見え隠れしておりました。日本からの帰国者である多くの女性や少女たちは口に泡を吹いて失神してしまいました。日本からの帰国組である辛承姫(シン スンヒ)は死体の横を通りすぎる時に、顔を背け石を投げませんでした。すると保衛は彼女を蹴り飛ばし靴で彼女を踏みつけました。彼女は叫び声を上げ、顔からはひどく血が吹き出ていたのですが、他の収容者たちは何事もなかったかのように石を投げ続けておりました。

 

ある家族全員の公開処刑

管理所の元警備隊員 崔東哲氏による報告

 1985年7月、国外逃亡を試みた5名からなる家族が、3日後管理所内の山の中で捕まりました。 祖母とその息子と3人の孫からなる家族で、その後、河岸に収容者全員が集められ、武装警備隊に取り囲まれておりました。 マシンガンが四隅に配置され、10歳にも満たない3人の子供達が撃たれるかたわら、祖母と彼女の息子が吊るし首にされたのです。 彼らの死体は横たえられ、藁の敷物で覆われておりました。


見せしめの為、収容者達はみな脇を通る傍ら処刑された家族をよく見て行くように指示されたのですが、その時囚人の一人が死体の1つに石を投げたのです。 するとすぐに他全員の囚人達が石を投げ始めたのです。それはとても恐ろしく凄惨を極める光景でありました。 収容者達は自分達が石を投げないことで受ける処罰を恐れていたのです。

 

 生きている時はもちろん、死んでも、誰もこの管理所から出ることはできません。 そこでは、暴行、飢餓、事故、病気、公開処刑による死者が絶える事はなく、しかしその後死体をどう処分していたのか、私には知るよしもありませんでした。 私は一介の警備隊員であり、保衛員が施設を管理、運営する者達なのです。 管理所で墓などは一切見たことがありませんでした。

 

公開処刑は北朝鮮では非常に一般的であり、明らかに見せしめとして国民を威嚇する為の機能を有しております。かつて軍に入隊する前にも11号管理所内で公開処刑を見たことがありました。そして最後に見た公開処刑は1992年の11月、私が業務を免職され逃亡するまで働いていたタバコ農場においてでした。

 

 中等学校生だった時に、私は友人と一緒に祭りを見に、北朝鮮の清津(チョンジン)市に行きました。私達はそこで公開処刑を知らせる広告をみたのです。とても寒い冬の日で、3000人の工場労働者がスソン川の辺に集められました。 そこで鉄鋼工場内の溶鉱炉の破壊を試みた一人の若い青年が「生産妨害(サボタージュ)」の責任を問うとして銃殺されました。彼の顔には黒い布が被されておりました。

 

 最後に見た処刑は1992年の11月、タバコ農場でした。10代の青年労働者が兵士を殺したとして、銃殺されたのです。

 

管理所での公開処刑についての少年の話

管理所の元少年収容者 姜哲煥氏による報告

 


 ある日、何の説明もなく学校が休校になったので、妹と私はとても喜び、午前中ずっと寝ておりました。午後3時ぐらいに目覚めた時、3人の収容者が逃亡したとの話を聞かされ、その夜、私の父と叔父が家に帰ってきた時に私は2人に逃亡者がその後どうなったのかと尋ねたのですが、二人とも口を噤んだままでした。

 

 次の日、学校から帰ってきた1人の少年が昨日河岸で見た事を私達に教えてくれました。

 

“何千人もの人がいる河岸で、施設の責任者が何か読み上げてから、保衛員達が、ほとんど死人も同然の自分自身を支えることもできないような3人を引きずって、それぞれの柱に縛りつけて、3人とも猿轡で口を塞がれ、何も言えないようにされたあとで、9人の狙撃手がやってきて、1人につき3人の狙撃手がついた。 そして「撃て」という指示があってすぐ「ズドン、ズドン、ズドン」という衝撃音が鳴って、彼等は3回撃たれたんだ。 処刑執行者は死んでいるかを確認するため彼らの体を蹴り、藁のマットで包み、そしてトラックに乗せると、走り去っていっちゃった。” 彼の話を聞いていた友達は非常に怯えていたし、同時に私も大きなショックを受けた。 少年はさらに続けた。“狙撃手はとても上手だったらしく、彼ら3人の体の同じ場所に弾丸を打ち込んで、そこに大きな穴を開けたんだ。 頭を撃たれるのと、胸を撃たれるのって、どっちが痛いと思う?”

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